「鬼」と言われて連想するのは、天然パーマの髪型に角がはえていて、口元からは牙が覗き、腰に虎(豹柄)の毛皮を巻いて、手にゴツゴツの金棒を持った姿でしょう。これは、ウキぺディアによると、丑(うし)の方角と寅(とら)の方角の間の方角である所(うしとら)を鬼門と呼ぶことによるものだそうです。

 一般的に、鬼は日本の妖怪で、民話に登場する悪いヤツ。平安から中世の物語に登場する鬼は怨霊であったり、人を食べるような恐ろしい怪物であったようですが、実際には、このページの両サイドにあるようなどこか愛らしく、庶民に親しまれる存在の鬼のイメージも沢山存在しています。

 西洋の『悪魔』は、元々は天使で、あまりに神様を愛し過ぎて「堕天使」になってしまった…この考え方は、日本の鬼にも当てはめられる所が大いにある様に思います。私が「ぬばたまの淵」で書いた『鬼』の光雲は、この「堕天使」のようなタイプ。「光雲」は「幸運」にもなれたはずの人物。理不尽な世の中を許せずに「鬼」となってしまった一人の人間の話です。今回は「光雲」のモデルを学生の頃からで気になっていた「崇徳院」として書かせて頂きました。<参考資料:「平家物語」「雨月物語」「保元物語」「新・平家物語」「怨霊になった天皇」(武田恒泰先生著)>

 昔から、私にとって、鬼は「強く、怖いモノ」ではなく、児童文学の『泣いた赤鬼』の話のように、どこか切なく、哀しげな存在でした。「鬼は外〜福は内〜」と節分に巻く豆も、決して、鬼を「殺す」為のモノではなく、あくまでも「退散してもらう」為のモノ。『鬼殺し』の民話は、存在せず、『鬼退治』である事。これは、すべての人間の中にある「鬼」の部分は「消滅させる事」は出来ないが「大人しくさせる事」は出来るる…と、言っている気がしてなりません。

 又、鬼門の方角に作られる楼閣はわざと空洞にして「鬼」に住みついて貰い、外から来る悪い「邪鬼」に対抗して貰う…と言う考えや、怨霊になったと言われる方達(崇徳院、菅原道真、平将門など)を、神社にお祭りし、強い『守り神』になって戴くという「御霊信仰」。。。私は、こういった日本独特の考え方が好きです。

 今現在のこの日本の状況下においては、「鬼」の持つ、強い力を「善」として、使い長年にわたる「悪」を断ち、英断を振うべき時ではないかと、そんな風に思っています。

 私の中にある「鬼」も、自分自身の「悪」を断つ為に使う事ができればいいなと…。


                 「ぬばたまの淵」 脚本/草部 文子