脚本:草部 文子
私が木曽義仲にスポットを当てたかった理由
私は、伝えられている「表の歴史」に隠されている「真実」に興味があります。

よく言われるように、歴史は,勝った側の人たちによって残されたもの。
「勝てば官軍」「歴史は勝者の創ったもの」な訳です。

特攻隊の脚本を書くに当たり、自分で調べ、実際色々な人に話を聞いた時、
学校で習ってきた<第二次世界大戦>の歴史とは,ずいぶん違う印象も受けました。
日本が野蛮で、アジアに侵略戦争をしていた…という話と、あまりに違う側面も知り、
増々、懐疑的に歴史を捉えるようになって行きました。

語られなかった歴史の中にこそ、「真実」が静かに横たわっている…



『ぬばたまの淵より真実は良く見える』
マイケルジャクソンのスキャンダル疑惑を見聞きした時、
<真実>がどうであるか…より、どちらの話の方が、<面白い>か…で、
どんどん話がでっち上げられてゆく。。。と言う人間の愚かさと、流言への弱さも感じました。

そんな思いの中で,私は,昨年「ちはやぶる神の国」で、<明智光秀>を書きました。
歴史に裏切り者の悪名を残す<明智光秀>の真の姿とは…??

そしてこの「ぬばたまの淵」では、
歴史上、乱暴者で,行儀の悪い、非常識な田舎者というレッテルの貼られた
<木曾義仲>と<木曾家>の人々の真実を自分なりに考えて描きました。

3.11以降、闇に包まれた日本において、やっと私にも真実が、見えて来た気がします。



『木曽義仲』に惚れたのは…
さて,前置きが長くなりましたが,木曾義仲に惹かれたのは、本人からというより、『平家物語』に描かれた彼の周りの人々の姿からでした。特に<木曾最期>の下りで、最期迄、義仲を守り従者達が次々に討死にしてゆく様子に、真の義仲像が見えた気がしました。

 <原文>
  木曾三百余騎、六千余騎が中を縦さま・横さま・蜘蛛手・十文字に駆け割つて、
  後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。
  そこを破つて行くほどに、土肥次郎実平、二千余騎で支へたり。
  それをも破つて行くほどに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、
  百騎ばかりが中を駆け割り駆け割り行くほどに、主従五騎にぞなりにける。

 <現代語訳>
  木曾の三百余騎は、敵の六千余騎の中を、縦に、横に、八方に、十文字に駆け破り、
  敵軍の後方へつつっと抜け出たところ、味方は五十騎ほどになっていた。
  突破してくる途中に、土肥次郎実平が二千騎で防いでいた。
  それをも突破して、あちらで四、五百騎、こちらで二、三百騎、また百四、五十騎、
  さらに百騎を駆け破り駆け破りしていくうちに、ついに木曾主従あわせて五騎になってしまった


そして、粟津ヶ浜で最期は共にという約束を守って出会う義仲の親友、兼平との友情。

 <原文>
  木曾殿、今井が手を取つてのたまひけるは、
  「義仲、六条川原でいかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくへの恋しさに、
  多くの敵(かたき)の中を駆けわつて、これまではのがれたるなり」。
  今井四郎「御諚まことにかたじけなう候ふ。兼平も勢田で討死つかまつるべう候ひつれども、
  御ゆくへのおぼつかなさに、これまで参つて候ふ」とぞ申しける。
 
 
<現代語訳>
  木曾殿が、今井の手を取っておっしゃったことは、
  「義仲は六条河原で最後を迎えるつもりであったが、お前の行方が気がかりで、
  多くの敵の中を駆けわって、ここまで逃れてきた」。
  今井の四郎は、「お言葉まことに有難く存じます。兼平も勢田で討死いたすつもりでございましたが、
  お行方が気がかりで、ここまで参りました」と申し上げた。


最期にあたって、こんな従者や友がいる木曾義仲とは、
きっと信じるに値する人物だったのだろうと考えました。
更に言えば,巴御前のような強い女性を愛する事の出来た義仲とは
本当に,懐の広い、大きな男だったのだろうとも、思いました。
正直なところ,<巴>さんが、羨ましいです(笑)。

そして、今回は,渡辺裕之さんに鬼に翻弄される「木曾義仲」を、
息子・義基役を布川隼汰君に演じて頂きます。
どうぞお楽しみに!



余談
とても不思議な出来事として、私がこの作品を執筆している時、本当に偶然に(X-JAPANのコンサート会場で)、木曾宗家(当時)とお知り合いになりました。あの時は、あまりにもビックリして、鳥肌が立ちました!その後,宗家に案内して頂き、巴淵や、林昌寺、旗揚八幡宮、鬼無里村まで行く事が出来ました。すごい引きだなあと木曾家とのご縁に感謝しております。


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