「ぬばたまの淵」の鬼<光雲>は…
  怨霊になった崇徳天皇
(第75代) 

   生没年:元永2年(1119) 〜 長寛2年(1164)<没46歳>
   天皇在位: 保安4年(1123)<5歳> 〜 永治元年(1141)<28歳>
   鳥羽天皇の第1皇子。後白河天皇の兄。

 
5歳にして天皇に即位されますが、白河法皇崩御後、28歳で父・鳥羽上皇から弟・近衛天皇への譲位を強要されて退位なさいます。その後も、色々な史実を見ると、崇徳天皇は、あらゆる局面において父親である鳥羽上皇に酷い仕打ちを受けていた様です。これは、鳥羽上皇が崇徳天皇を実子ではなく、白河法皇(鳥羽上皇の祖父)の子だと信じ、とても嫌っていたからだと言われています。鳥羽法王重体の報に崇徳上皇は鳥羽殿へ赴きますが、側近たちにさえぎられ父への別れもお出来にならないまま引きされ、法皇死後の御葬儀にも、崇徳上皇の参列は許されなかったといいます。
 ここに至り、
我慢の限界に達してしまわれた崇徳帝は、保元元年(1156)、源為義、平忠正らと「保元の乱」を起こし、武力により弟後白河天皇からの覇権奪還を試みますが、結果、敗れて讃岐へ流されてしまいます。 その後、讃岐で落ち着きを取り戻された祟徳上皇は、3年の歳月をかけて5部の大乗経(華厳経・大集経・大品般若経・法華経・涅槃経) を写経し、これを父鳥羽帝の墓前に供えてほしいと都へ送られます。しかし、同母弟・後白河天皇の近臣・藤原信西(しんぜい)に受け取りを拒否され、5部の大乗経は突き返されてしまいます。祟徳上皇帝はこれを聞いて激怒され「我願わくば五部大乗経の大善根を三悪道に抛(なげう)って、日本国の大悪魔とならん」と、舌を噛み切り、流れる血で、突き返された五部の大乗経に呪詛の誓いの言葉を書きつけられたと言います。それ以来、髪も爪も切らず伸ばし放題にし、凄まじい形相になられ、「院は生きながら天狗となられた」と噂される様になって行ったのでした。(保元物語・平家物語)そして長寛2年(1164)崇徳院はこの地で憎しみの内に46歳で崩御されています。(崇徳帝の死については、二条天皇の命を受けた讃岐の武士、三木近保が暗殺したと言う暗殺説もあります。)

 帝の陵墓は白峰山(しらみねさん/香川県坂出市)に造られましたが、遺体は葬儀に関する朝廷からの指示を待つ間、木の下の泉に20日間塩漬けにされたそうですが、その間、全く様子が変わらず、まるで生きておられる様であったと言い「20日経っても死にきっておられない…!」と人々が驚愕したという話も残っています。また、遺体運搬中、その柩からは血が流れ出し、あたりを真っ赤に染めたという話や、遺体を焼く煙が、うらめしそうに都の方にたなびいていったとも伝えられています。 

 崩御した崇徳上皇はここで荼毘に附され、御陵が築かれましたが、崇徳院の死後、
都では凶事が相次ぎます。
二条上皇の夭折、天然痘の流行、都の大火、平治の乱による藤原信西の死
(五部の大乗経の受け取りを拒否した人物)、源義朝(保元の乱の敵)の死。都の人々は、崇徳上皇の怨霊のせいだと怖れ、朝廷も怨霊を鎮めるため、死後3年目に「崇徳院」の諡号を贈りますが、異変は続いたそうです。以後、天災や飢饉のような、都における大きな凶事は多くが崇徳帝の怨霊のせいにされ、事あるごとに崇徳院の祟りではないかと噂されてゆきます。江戸時代になってからも、近代の皇室においても同様で、慶応4年(1868)戊辰戦争に際し、また江戸へ遷都する前の明治天皇は、崇徳院の怨霊を鎮め、朝廷の守護神となって戴くため、皇宮近くに白峰神宮を造営し、崇徳上皇の命日に讃岐の白峰から崇徳上皇の神霊を迎え入れ、ここでやっと、崇徳天皇は、死後700年を経て、ようやく京都に戻られることが出来たわけです。


   
「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」

   流れの速い川の浅瀬では、岩に堰き止められて流れが二つに分かれてしまうけれど、その流れはまた一つに合わさってゆくのです。
   今、貴方と別れても、この水のようにきっとまた巡り合えるでしょう。


    
「瀬をはやみ」は川の浅瀬が早く流れているので/「岩にせかるる」は岩に堰き止められて/「滝川の」は急流の/
     「われてもすゑに」は分かれたとしてもその末には/「逢はむとぞ思ふ」はまた一つ(一緒)になる/「思ふ」は決意を意味している。
      詞花和歌集には「題知らず」で収録されていますが、おそらく保元の乱で島流しにあった際に詠まれた歌と言われています。

  和歌を愛したおられた崇徳院の、うちに秘めた情熱と悲しさを詠みとく事の出来る、象徴的な美しく力強い歌だと思います。