飛行機雲をたどって過去へ旅する夏。 |
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夏になると引き寄せられるように、靖国神社に行きます。 私の親族に英霊は一人。海軍中佐だった叔父の太田一道。 写真に残る、白い軍服姿の一道さんは、とてもハンサムで凛々しい人です。江田島で航海術を教える先生でしたが、終戦間近の昭和二十年の五月十六日、航海長として乗り組んだ重巡洋艦羽黒で、戦死してしまいました。この船は日本海軍最後に沈められた軍艦で(生き残った方達の話によると)叔父は艦橋(ブリッジ)で直撃弾を受け即死だったそうです。その叔父の体は、今もシンガポール沖に深く沈んだままで、お墓に遺骨はありません。そのせいか、靖国神社にいった方が叔父にあえる気がします。 この『飛行機雲』は2000年の春、ラジオドラマとして書き下ろしました作品でしたが、その時、FM鹿児島の制作部長だった東正知さんに監修を頼み、台本のチェックをお願いしました。 『お前』とは言わず『貴様』と呼ぶ。 『知覧』は陸軍。『鹿屋』が海軍。 海軍は『大尉(だいい)』と呼ぶ。 海軍と陸軍の区別もつかなかった私でしたので、とにかく聞く事すべてが知らない事ばかりで、本当に大変でした。そんな私を丁寧に教えて下さったのが、東さんでした。そんなある日、放送局の中で東さんと話している時に、私は驚愕する事実を知る事になります。東さんが言いました。 『実は僕の兄は戦艦羽黒で戦死してるんだ。』 『エ?今なんて?』 『羽黒のブリッジでね、戦死してるんだ。』 『エ?!戦艦羽黒のブリッジ?!』 何という偶然でしょうか! お兄さんが私の叔父と同じ部屋で戦死してる....!? 東さんに自分の叔父の話をすると、東さんも言葉を失い、暫く二人でぼう然としてしまいました。 そんな事って...?!その後、羽黒の文献を見ると、東さんのお兄さんと並んでうちの叔父が並んで写真に残っている事が判り、涙が止まりませんでした。こんな偶然って.....?! この話は5年前の春。そして今年『飛行機雲』のチケット予約の電話に(普段は滅多に出ないのですが)私が出ると、防衛庁からのご紹介だという濱田さんという方からのもの。私は何気なく聞きました。 『自衛隊の方ですか?』 『いいえ。私の父が海軍で、戦艦羽黒の艦長でした。』 『エ?!羽黒の艦長!』 私は息を飲みました。.........伯父さん!! 私の叔父が羽黒に乗っており、艦長のお写真を持っている事をお伝えすると、濱田さんも、大変驚かれ、お父様の写真がないとの事でしたのでコピーして差し上げる事が出来ました。 こんな偶然ってあるのでしょうか? 私は、飛行機雲を辿りながら、魂の導きを感じています。 今年の春。初めてのピースボートの船旅でシンガポール沖に行きました。 デッキで見た振るような流れ星に、私は伯父さんの魂を感じていました。 自分の大切な人を守る為、命をかけなければならないような、そんな恐ろしい時代が繰り返されないように、まずは自分自身、今出来る事を 毎日の生活の中から。 |
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